岡山市中消防署の西。休日には涼を求めて、多くの家族連れが訪れる「百間川せせらぎ広場」の隣に「百間川一の荒手」が静かに鎮座している。これまで岡山平野を守り続けてきた3つの荒手 (永忠堤 : 三の荒手は、1892年の洪水で消失)。それを築いたひとりの偉人に想いを馳せた。
改めて岡山市の地図を俯瞰してみると、興味深い事実に気がつく。それは、三野から東西に分かれる百間川と旭川。この百間川の存在こそが、承応3年(1654年) の大水害をはじめ、幾度もの災害に襲われた岡山城下を現在の70万政令指定都市へと導いた、「繁栄の礎」となったのは県民ならば誰もが知る事実といえる。そして、その礎を文字通り築いた立役者こそが、あの津田永忠。「その才、国中に双ぶものなし」と池田光政をして言わせしめた岡山藩きっての英才である。
永忠の業績をざっとあげるなら天下の名園・後楽園の建設、国宝・閑谷学校の建設と経営、倉安川の開削と倉田新田、幸島新田、沖新田の開発、そして百間川の開削...。それらは、300年あまりを経た今も岡山県の繁栄を支える財産であり続けている。驚くことに永忠は、これらの治績をわ ずか20余年で成し遂げた。そんな偉人を「永忠(えいちゅう)」さんの愛称で慕う岡山県民は今も少なくない。
秦社長もそのひとり。構想から完成まで、22年を要した「岡山市北区大和町の分譲地」は長年、強固な「永忠堤」で守られ続けてきた稀少なエリアのひとつといえるだろう。
「『永忠堤』のおかげで大和町はその後、旧陸軍の将校用の官舎が造られるほど、安全で誉れ高い町になりました。
そんな大和町に晴れて分譲地が完成します。この分譲地は従来の地面より、さらに60〜80センチ真砂土で高くしています。『永忠さん』に見てもらっても恥ずかしくない、胸を張って誇れる宅地に仕上がったと思っています」。
地域を守り抜いた永忠をはじめとする先人たちの想いが宿る大和町。建設人として「地域を守り抜く」、その一助となれる誉れ。真備町の水害で辛酸を舐めた秦社長だから分かり得る「安全」への強い信念がそこにある。最後に「全 39区画、つまりは39の世帯が暮らす町になります。いつしか、それぞれの家に灯りが灯ったら...さぞや美しいことでしょう」と秦社長は締めくくった。
大和町を思い、起こさせる本居宣長の歌。
「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」。その意は、「日本人である私の心とは朝日に照り輝く山桜の花の美しさ を知る、その麗しさに感動する、そのような心」。
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